清く貧しい世界

清く貧しい世界

清貧の思想 中野孝次

バブルの時代、海外では、日本は工学技術と生産性を持つ国であるのに、海外に来る日本人が文化を感じさせないと思われた。日本人は物作りとか金儲けとか現生の富貴や栄達を追求する一方で、心の世界を重んずる文化の伝統のあることを、海外の人に知らせたいと思いこの本を書いた。日本人は表も裏もわかる民族なのだ。大量生産=大量消費の世界だけではなく、物を大事にする清く貧しい世界、心の文化があるのだ。

1.本阿弥光悦

江戸初期で刀、目利き、磨きを家業とした人。書、楽茶碗、茶道茶人として有名であった。母の妙秀は、富貴であるよりは、貧しくとも、人間らしいほうが良いと考えていた。衣食住の過不足を考えた上で、簡素な所有を目指した。

2.吉田兼好

鎌倉末期から南北朝初めの官人。吉田神社の神職であったが、出世にめぐまれず、30歳ころ出家した。清少納言の枕草子、鴨長明の方丈記とならぶ日本3随筆の1つ徒然草を書いた。世の中は無常であり、何かに執着することはむなしいとした。

徒然草序段 つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかいて、心に移り行くよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

第123段 第1に食べ物、第2に着る物、第3に居る所、第4に病に対する薬、この4つを求め得ざるを貧しとす。欠けざるを富めりとす。この4つの外を求めるをおごりとす。

3.鴨長明

平安末から鎌倉初めの人。賀茂神社の神職につこうとしたが果たされず、50歳のときに仏教に出家遁世した。山中の方丈(方丈3m四方の住居)に住んだとき方丈記を書いた。

冒頭 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくととまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

4.良寛

江戸時代末期、新潟の名主の子だが、当時全国各地で餓死者の出た米騒動があり、18歳のとき突然出家した。備中円通寺で仏道修行した。61歳のとき、新潟に簡素な五合庵の草庵を構えて書を書いた。食のないことが常態であるからこそ、三升の米のあることがありがたいのである。物があることに無上の満足と感謝を覚える。子供達を愛し、積極的に遊んだ。

辞世の句 うらを見せおもてを見せてちるもみぢ

5.与謝蕪村

江戸後期の俳人、画家。身は市井の中に住み、日常は俗事にかまけていても、心だけは俗を離れた境地にいた。

月天心貧しき町を通りけり

6.松尾芭蕉

江戸元禄期、生涯旅した俳人。わびさび幽玄閑寂の俳風を確立。歌聖の西行、俳聖の芭蕉と言われた。

閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声

荒海や佐渡に横たう天の川

7.西行

平安末から鎌倉初の名門武士の生まれ。若くして乱れた世の中に感ずるところがあって、出家して生涯を歌人として生きる。後鳥羽上皇に絶賛された。西行は現生に浄土を見ようとし、月を見て、花に会った。

吉野山こずえの花を見し日より心は身にもそわずなりにき

ともすれば月すむ空にあくがるる心のはてを知るよしもかな