日本のやくざの歴史

日本のやくざの歴史

(やくざ親分伝 猪野健治)

日本のやくざの歴史は、ほぼ500年に及ぶ。日本のやくざ史上、新興アウトローが台頭するチャンスは4度あった。

第1回目 室町末期1500年代、応仁の乱以降、下剋上の風潮が全国に充満していた時代である。真っ先に生命の危険にさらされる足軽の侠気を横につなぐ形で、義兄弟結盟の場を作り出した。義侠のためなら、主君や両親にも叛くという思想は、封建社会においては、革命的であった。

第2回目 幕藩体制が崩壊する徳川末期である。長州長脇差に見られるように、八州警察は組織ややくざに対して無力であった。戊辰戦争が始まると、官・幕両軍は、全国の博徒を自軍に組み入れた。正規軍の10分の1であった。しかし、彼らの得た報酬は何もなかった。日本のアウトローは、権力の側に取り込まれる弱さを持っていた。

第3回目 関東大震災の時である。罹災者340万人、全焼家屋38万戸、死者6万人、負傷者3万人。てきや系やくざが、壊滅した飲食店にかわる屋台(スイトン、うなぎ、たこ焼き屋)で大ヒットした。復興ブームに乗った土建系博徒も伸長した。

第4回目 敗戦直後である。

①東京では、新宿、池袋、銀座、上野、浅草は戦前からの組が勢力を張っていた。新橋は混戦地帯になっていた。戦勝国に逆転した台湾省民が露店営業を始めた。松田義一は千葉刑務所でニラミを利かせていた。出所して関東松田組を作り、千葉刑卒業生50人をかかえた松田組は新橋の露店市場を押さえた。

②新宿マーケット関東根津組根津喜之助は、終戦からわずか3日後、新聞で露店用の商品買い付け広告を出した。関東大震災の体験が役立っていた。露店を警察署に許可してもらった。出店者の大部分は罹災者や復員者だった。露天商人口は18万人程度に達した。1947年頃になると、GHQの親分掃討作戦が始まり、根津は収監された。1977年自宅で大往生した。

③てきやの芝山益久は、苦労して日本街商組合を結成した。他に仕事がなく苦しむ露店商人のため、縁日露店を再開させた。

④山口組中興の祖・田岡一雄 3代目組長田岡一雄は、徳島県の貧農の末っ子に生まれ苦労した。山口組に入り、3代目になる。極道は賭博を稼業の本道としてきた。それまで山口組は、数ある組の1つに過ぎなかった。しかし、田岡は合法事業の港湾荷役、興行界に進出した。山口組は朝鮮戦争で拠点港になった神戸港の船内荷役に進出した。その後、大阪、名古屋にも手を伸ばした。山口組の組織も改革した。最高幹部会を作り、事業と組の完全分離を計った。1966年兵庫県警が山口組壊滅作戦を開始した。港湾荷役、興行から締め出された。1969年、柳川組解散の組員吸収により、1万人の大集団になり、極道界の頂点になった。用心棒などが事業の中心。1981年病院で死去した。