東方キリスト教徒・秦氏
(日本とユダヤ 久保有政)
1.日本に来た渡来人・秦氏
秦氏は中央アジアの弓月から朝鮮半島を経て、4世紀後半、大集団で古代日本に渡来した。第15代応神天皇の時代に、氏族ごと受け入れられ帰化した。新羅は当時、漢族以外の中国からの逃亡民で構成されていた。彼ら逃亡民は秦人といわれた。新羅も元は秦韓といった。弓月にはヤマトゥという地名がある。彼らが多く住んだ近畿地方をヤマト(アラム語でヤハウェの民の意味)と呼んだ。弓月はウズベクやキルギスに近い。キルギスの人の顔は日本人に似ている。失われたイスラエル10支族の末裔があちこちにいる。秦氏は東方キリスト教徒・景教徒になったイスラエル人であった。景教徒はアラム語(古代イスラエル語)を話し、イスラエルの風習があった。京都の太秦ウズマサはアラム語でイエス・キリストである。大酒神社=太秦明神もイエス・キリスト神社である。太秦の蚕の社に三柱鳥居がある。上から見ると三角形になっている。キリスト教の父ヤハウェ・子イエス・聖霊の三位一体を表す。日本ではアメノミナカタヌシ・タカミムスヒ・カムムスヒの造化三神の三位一体を表いている。秦氏はすでにあった古神道を600年ころ神社神道に整えた。庶民のものにした。八幡神社や稲荷神社の創始者である。大分県の宇佐八幡宮は、昔、秦氏の最も古い居住地であった。八幡信仰は聖書のお神輿や石清水八幡宮の岩から清水(モーゼ)、鳩は神の使い、幼い男子・箱舟・伝説(モーゼ)などキリスト教的神道であった。稲荷神社は京都伏見に始まった。イナリはもと伊奈利と万葉仮名で書いた。INaRIはキリスト教絵画にあるINRI(ユダヤ人の王ナザレのイエス)であろう。白キツネは後に弘法大師・空海が持ち込んだものだ。赤い鳥居は、過ぎ越しの小羊の血を家の入口に塗る故事による。伊勢神宮の神官は渡会氏であるが、その祖は大秦主命だった。伊勢神宮の20年遷宮は古代イスラエルの契約の箱の20年移動とそっくりだ。秦河勝は京都太秦の広隆寺に、聖徳太子から、新羅から送られた弥勒菩薩(半跏思惟像)を安置した。手の指の形が、親指と薬指を合わせ三角形をつくり、他の3本の指を伸ばしている。 この形は東方キリスト教徒や景教徒の三位一体神を表している。ロシア正教のキリストのイコン(聖画)も同じ手の形である。広隆寺は景教の寺である。また、雅楽を伝えた人々は秦氏であった。現代の演奏家にも秦氏子孫がいる。雅楽の越天楽は東方キリスト教の音楽である。黒田節も越天楽の編曲である。神道は古代イスラエルの宗教であり、秦氏以降は東方キリスト教の要素が加わったと言える。日本人の40%はY染色体がD系統(日本とチベットのみ高率で見られる)である。これはユダヤ人に多いE系統と同じ仲間である。両者は同一の先祖から来たのだ。
2.日本文化は縄文人、弥生人、渡来人、平安国風文化と進歩した
①縄文人
7000年前、過去1万年で世界最大の鹿児島県鬼界カルデラ噴火で、西日本は人がいなくなり、縄文時代は東日本に人口が集中した。モンゴル等の北アジア人中心で狩猟定住生活であった。言語は文法が○は、○を、○するの形式だった。土器など高度な文化を持ち1万年以上続いた。
②弥生人
長江の原アジア人(呉越、チベット)がBC400年頃、戦乱で中国を押出され、西日本に稲作文化・照葉樹林文化を持ち込み、人口が東日本と同等になった。言語は短単語の目、口、耳などが導入された。精霊信仰神道が持ち込まれた。
③渡来人
AD400年頃、中国戦乱の圧力で、新羅・秦韓・百済・高句麗を経て、日本に押し出された渡来人が大量に来た。中国の先進文化が日本にもたらされた。特に秦氏等は、酒造り、製塩、絹織物、河川制御、納税方法、平安京などの都市建設、神社神道(八幡神社、稲荷神社)、仏教、漢字、万葉仮名、仮名など中国隋唐の世界水準の新文化を持ち込んだ。
④平安時代以降の世界水準の大国・日本の成立
日本は人口が多く、言語人口としては、世界6番目位の大国である。島国で国防治安に優れ、北半球の四季のある海洋国家で、京都、大阪、東京など世界都市がある。