徳川吉宗

徳川吉宗

(お金で読む日本史 本郷和人)

8代将軍徳川吉宗は、異例な将軍(1716年から1745年)である。幕府の財政再建を期待されて就任した。政策は、前任の紀州藩の財政再建と同じである。まず、徹底的な倹約をおこなった。衣服は木綿で自分の子供も木綿だった。武士の子は幼い頃から甘やかすと強い子にならないと言った。また、当時は元禄時代の後で、江戸の町民も1日3食が定着した。自宅の内食(うちしょく)は、白米、汁物、いわし・豆腐・納豆、沢庵漬けであった。吉宗の食事は、1日2食であった。1日2食で十分、太平時に飽食の癖をつけると、非常時に昼夜奔走、働くことが出来ないと言った。朝食は戦国時代の陣中食である焼きおにぎりと焼き味噌、夕食も一汁三菜であった。豪華な調度品は遠ざけた。次に大名に石高1万石につき100石の上米(あげまい)を上納させ、代わりに参勤交代の江戸在府期間を半分にした。財政再建後は元に戻した。幕府収入の13%、旗本・御家人支給米の50%であった。上米は新田開発の資金にした。天領の石高は400万石から460万石に増えた。就任5年後には黒字になり、財政再建を成し遂げた。晩年には100万両(現在価値1000億円)を貯蓄した。吉宗の墓(68歳死亡)は、前例と異なり、豪壮な霊廟は作らず、吉の字を与えた恩のある5代将軍・綱吉の霊廟に合祀(ごうし)された。

吉宗は最高権力者・将軍でありながら、なんでこんな事が出来たのか。1つには、徳川家康が幕府の政治を老中・親藩・旗本に任せたが、石高は与えなかった。一方、外様には石高の多い辺境の地を与えたが、政治には関与させなかった。すなわ、権力と金・石高は切り離した。もう1つは、吉宗の生まれが、とても将軍になれるとは、思われなかった状態であり下積み生活が長く世の中を理解していたからである。吉宗は御三家・紀州藩の4男に生まれたが、母の身分が低く、若いころは家臣に預けられた。江戸の紀州藩邸にいたとき、5代将軍綱吉と会い、越前国の3万石の藩主にしてもらった。その後、紀州藩の兄たち3人が亡くなったため、紀州藩5代藩主になった。ところが、当時紀州藩は火の車であった。紀州藩の財政再建に取り組み成功させた。その後、江戸将軍家の跡取りも死亡した。江戸幕府も旗本・御家人に支払う切米・扶持米の支給にも窮する財政悪化の状況であった。御三家の中から将軍を選ぶのに、紀州藩財政再建の実績を買われたのであった。