東京裁判と南京虐殺事件

東京裁判と南京事件

(南京虐殺の虚構 田中正明、南京事件の全体像 東中野修道)

戦後の日本の発展は、何でも有りの中で、結果として幸運な方向に来た。戦後の我々は戦後史を知らないまま、75年過ぎた。何でも有りでは、今さら知ったところで、どうなるものではない。ただ、認識しておくだけだ。

1.東京裁判

東京裁判は戦勝国が敗戦国日本を裁いた裁判である。戦争の責任は一切敗戦国にあるとした。日本を悪玉に仕立てて政治的に宣伝・断罪した裁判である。東京裁判の狙いは①歴史の断罪②罪の意識の扶植③報復である。ニュルンベルグ裁判に倣って、戦争法規の違反ではなく、人道・平和に対する罪・事後法で裁いた。そして、ナチスドイツのアウシュビッツに匹敵する日本軍の残虐行為として、南京虐殺事件をでっちあげた。マッカーサーは、2年後、東京裁判はあやまりであったとトルーマン大統領に告白し、その1年後、日本の戦争は、侵略ではなく、自衛のためであったと米上院公聴会で証言している。誇張され過ぎた東京裁判史観、日本罪悪史観が今だに尾を引いている。

2.南京事件

現在の日本教科書の南京事件の扱い

日本軍は(中略)1937年首都南京を占領しました。その過程で、女性や子どもをふくむ中国人を大量に殺害しました(南京事件)<本文>、この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした<注>

これは、1982年の日本の教科書では、20万、30万人の子どもや婦人を含む大虐殺と書いていたが、現在は訂正された。

南京事件は南京最高軍事会議が全面抗日戦を決議。この流れで、日本軍は条約で北支にいたが、南京攻略を決定。松井大将(裁判で死刑)は、「南京は中国の首都である。この攻略は世界的事件であるゆえに、敵軍と言えども寛容慈悲の態度で、軍紀風紀を厳粛にせよ」と命じた。南京では一般市民が避難できる中心部に、中立地帯が作られた。約4平方キロ。20万人の非戦闘員(一部兵士)がすし詰めであった。死体埋葬は紅卍会が有料で実施した。実際は5千体くらいであったが、埋葬代が高額なので、会は3万体と水増しした。城内外で1万5千体埋葬が上限であった(南京場内の死体数は千人以内)、30万人虐殺説などもっての外である。

南京で女・子どもを含む何十万人の中国人を大虐殺したと、進駐軍の手によって、NHKが1945年12月9日に放送した。南京大虐殺は、派遣軍司令官の松井大将ですら、敗戦後知った。直後に南京に入城した100人以上のマスコミ関係者も知らなかった。正に作られたものであった。