日本宗教史
(教養としての日本宗教事件史 島田裕也)
1.貧病争のこころの克服
①人間が人生を生きてゆくということは、貧病争を克服して生きてゆくということである。
②暑さ寒さを克服する衣服、住居と毎日の食事がないと人間は1日も生きられない。
③貧病争の克服とは、その人間個人が生産手段を得て、働く以外にない。
④自分以外の援助先は、物質的には、両親、兄弟姉妹しか援助先はない。その点で、遺産相続は重要である。普通、日本では、生産手段相続は、一人相続で分割しない。金銭土地相続は、生活に困っている子供に相続させる、である。
⑤助けを求めるこころの叫びの問題としては、親族・友人やこころのクリニック(薬、カウンセリング)や宗教しか助けられるものはない。
⑥宗教は人間の貧病争のこころの苦しみをいやす仕組みである。物質面の援助はない。密教の願望成就の祈祷、病死の来世天国転生生まれ変わり、すべての者が救われる法華経の思想など、心を安らかにしてくれる。
2.日本宗教史
①仏教伝来
550年仏教が伝えられる前の日本には、神道の信仰が存在した。仏教の伝来は、奈良や京都の日本の文化の基盤を作った。神道と仏教は性格が異なる。神道は、神は形で表現されない。仏教は仏像を作りあがめる。性格が違うからこそ、神仏習合の信仰が成立した。
②大仏開眼
750年奈良の大仏殿が完成した。聖武天皇は、廬舎那仏の慈悲の力によって、安定した国家運営の実現を願った。
③鑑真来日と最澄天台宗
大仏開眼前に、鑑真が来日し、僧侶を認定する戒壇を設けた。天台宗を開いた最澄は、死後比叡山に大乗戒壇の建立の勅許が下された。天台宗は日本仏教界の中心となった。第3代座主、円仁は入唐し、法華経、念仏、文殊菩薩信仰、密教を学び、比叡山に導入した。第5代座主円珍は、三井寺(園城寺)を道場として賜った。密教だけでなく、法華信仰や浄土教信仰や新羅明神(危険な入唐船で新羅明神に会った)など取り入れ、日本仏教の総合的な道場となった。
④空海真言宗密教
空海は高野山を開いて、祈祷の密教が日本仏教界を席巻した。
⑤浄土教信仰
源信は往生要集で南無阿弥陀仏の念仏業で極楽往生を果たすことを説いた。平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂など、密教のあとに流行した。浄土教信仰は空也、鎌倉時代の法然により、さらに広がった。
⑥日蓮
日蓮は比叡山で天台宗を学び、法華経と、密教の大日経では、法華経が優れると確信した。天台宗(法華経)以外の他宗派をすべて批判した。南無妙法蓮華経の題目に、すべての教えが含まれていると考えた。国家のあり方を問題にした。密教の個人救済中心を激しく批判した。
⑦浄土真宗
親鸞は浄土真宗の本願寺を開いた。僧侶の身でありながら、妻帯し子どもをもうけた。在家主義の立場をとった。1450年、本願寺8世の蓮如は教団改革を進め、僧侶と庶民が対等に宗教活動を実践した。蓮如のかな書きの御文は庶民に理解された。
⑧禅宗
1200年、入宋して、禅を学んだ栄西は臨済宗を開き、道元は曹洞宗を開いた。浄土教に続いて流行の仏教であった。江戸時代には黄檗宗が中国から伝えられる。開山は明の隠元である。
⑨日本宗教を一挙に近代化した織田、徳川
織田信長は比叡山や本願寺の一向一揆を打ち破った。中世を打破し、近世への扉を開いた。徳川家康は宗教権力を押え、活用した。キリシタンを取り締まるために、寺請制度を導入した。地域の寺の檀家になる戸籍制度だった。葬式仏教ができた。江戸時代は、世俗権力に支配された非宗教的時代だった。
⑩明治天皇、昭和天皇
1868年明治維新がなり、明治天皇が立憲君主国家を打ち立てるために、祭政一致・政治的復活と現人神となった。天皇信仰は戦争を後押しした。1946年正月、日本が大平洋戦争に敗れ、昭和天皇は、天皇の人間宣言の詔書を発して、天皇は現人神でないことを明言した。
⑪なぜ宗教法人は非課税なのか
現在、宗教法人が非課税なのは、収益を上げる活動を行わない神社や寺院が存続する基盤を提供するためである。もし、法人格を与えられなければ、広大な境内や建物には相続税が課せられる。また施設を維持する費用を自前で出さねばならないので、金がかかり、存続が難しくなるのである。