教養としての宗教
(教養としての日本宗教事件史 島田裕也)
宗教はスキャンダラスなものである。だからこそ、宗教にまつわる出来事は、週刊誌の格好のネタになってきた。宗教がスキャンダラスな存在であるのは、その教えを確かめることが、本質的に困難だからである。その人間が信奉する神は実在するのか。いかなる手段を用いても、それを証明することはできない。外部の人間からすれば、信者たちは宗教家にだまされているだけだと見えてしまう。宗教、宗教家、教団には、胡散臭さがつきまとっているのである。
もう一つ、宗教への入信動機として、貧病争ということが言われる。金、家族関係のごたごたは、相当にスキャンダラスな事柄である。そこから生まれる悩みや苦しみからの救済を説く宗教は、本来スキャンダラスなものにほかならないのである。宗教は生産手段を持たない以上、その存続にはどうしても金が必要である。権力との関係の維持は不可欠である。そこには激しい抗争や対立が生まれる。スキャンダラスな方向に傾斜していかざるを得ないのである。
宗教運動はその目的を設定することが難しい。宗教が掲げる目標は具体性を欠いたものになりやすい。とりあえず、大建築物や支部末社、信者数を飛躍的に増やすことが目標に設定されるが、それが実現されると、その先がなくなってしまう。
宗教というものは、相当に危険なものである。宗教の核心は信仰であるが、ときに盲信、狂信という方向に傾いてしまう。周囲と軋轢が起こり、様々な対立や事件が起こり、トラブルの原因になる。確かに、信仰をもつことが、未来に対する希望を生む面がある。信者たちは、同じ信仰をもつ者に対して優しい。どん底の人間には、かけがえのない救いになる。宗教は、危険と魅力を併せ持っているのである。