日本の音楽史

日本の音楽史

(おもしろ日本音楽 釣谷真弓)

1.古代の楽器と音楽

三内丸山遺跡の環状列石や能登真脇遺跡の環状木柱列のような場所で祭祀のために使われたと思われるのが、音を出す道具である。ヤマトことばで楽器をあらわす語に、コト(弦楽器)、フエ(管楽器)、ツヅミ(打楽器)、スズ(鈴)、ヌリデ(銅鐸)がある。弥生文化の静岡県登呂遺跡ではコトが発掘されている。その子孫である和琴は、現在でも神楽で用いられている。

2.飛鳥奈良時代の大陸音楽

聖徳太子は供養のためには、蕃楽を用いよと奨励した。伎楽は仮面劇である。続日本紀に東大寺大仏開眼供養法会のときには、大仏殿の前で、数百人の楽人舞人によって、大陸・半島などのアジア中の音楽・舞踊が披露された。701年の大宝令で雅楽寮(和名うたつかさ)が設置され、音楽を仕事とする専門家が存在した。正倉院には、渡来の18種類、75個の楽器が残されている。

3.平安時代に雅楽が完成

平安時代は、中国の模倣を離れて国風文化をはぐくんだ。平安京人口は10万人台だった。宮廷・寺社がたずさわった礼楽思想に基づいた儀式音楽が、雅楽として確立した。雅楽は舞をともなう舞楽と器楽(弦楽器、管楽器、打楽器)合奏の管弦がある。儀式で歌舞音曲を担当するのは専門家である。楽人として父子相伝で楽家を確立した。現在でも国家公務員として宮中晩さん会などの音楽を担当している。

4.鎌倉時代は白拍子・今様・平家琵琶・仏教声明(しょうみょう)

宋文化の影響を受け、貴族・武士と庶民文化の二面性を持った芸能が生まれてきた。白拍子は男装の麗人が男舞を舞った。平安時代末期の今様をうたい、足拍子をふみながら舞う舞踊であった。南北朝の時代になって、琵琶法師が諸国をまわり、平家物語を語った芸能があった。平安時代の天台宗、真言宗に加え、新宗教が出てきた。それぞれが、独自の法会の声明音楽を展開するようになった。一般庶民が担い手となって行う芸能が登場した。

5.室町時代は能楽・日本文化のできあがり

室町時代に和風が定着した。畳、日本庭園、床の間、掛け軸、焼き物、豆腐、みそ汁、醤油、砂糖、日本茶など。芸能史上、特筆されるのは、現存する世界最古の舞台芸術として、最初に世界無形遺産に登録された能楽が確立された。能楽の起源は大陸から渡来した散楽という雑技である。これが演技が中心の猿楽になり、歌舞を重視する猿楽の能、笑いのセリフ劇の猿楽の狂言が生まれた。猿楽は座(劇団)を結成して盛んになった。その中で、観阿弥が幽玄という新しい芸能を完成させた。その息子の世阿弥の観世座は、3代将軍足利義満の後援を得て、勢力を伸ばした。8代将軍義政の時代は、公家文化と武家文化、禅宗がもたらした宋の文化、振興の庶民文化がシェイクされ、東山文化・和風文化が発達した。

6.安土桃山時代は能楽とキリシタン音楽の教会音楽も入ってきた。能楽は武将をテーマにした演目が多く、秀吉や家康が後援した。キリスト教の伝来とともに、オルガン・ヴィオラなどの楽器がもたらされた。

7.江戸時代初期は町人文化が芽生え、三味線(沖縄の三線から誕生)、歌舞伎、近代筝曲が誕生した。慶長8年、出雲の阿国がかぶき(異様な、型破りな風体)踊りを始め、人々は熱狂した。近世筝曲の祖とよばれる八橋検校が、平調子という音の合わせ方を考えだし、雅楽の音階を、三味線の都節音階(ミ・ファ・ラ・シ・ド)に変更した。初心者も学校の授業も<さくらさくら>はこれで弾く。

8.江戸時代中期は文化の伝播で地方文化が興隆、人形浄瑠璃・義太夫の成立、歌舞伎・劇場芸術が成立した。歌舞伎音楽としては、常磐津、富本、清元という浄瑠璃(三味線を伴奏に使う語り物音楽)が登場した。

9.江戸時代後期は都都逸(節回しもなく気楽に歌えた)が流行った。幕末には三味線は定着し、庶民の楽器となった。尺八(管の長さが1尺8寸)は、虚無僧が法器として読経の代わりに吹いた。

10.明治時代は押し寄せた西洋文明に邦楽界が混乱した。学校の音楽教育は小学唱歌と中学に奏楽が設けられた。

11. 大正・昭和初期は大正デモクラシーで音楽家の山田幸作、歌謡曲の誕生、新劇劇団が生まれた。1920年代、邦楽に宮城道夫が出て、邦楽に洋楽を取り入れ、ラジオ放送などを通じて邦楽を広めた。

12. 戦後は西洋音楽を日本歌謡曲に導入する動きになった。クラシック、ポピュラー、ジャズ、ハワイアン、ラテン、シャンソンなどを導入した。歌謡曲、ポップスが流行の主流になった。