戦後傑物・瀬長亀次郎と岸信介

戦後傑物・瀬長亀次郎と岸信介

(瀬長亀次郎の生涯 佐古忠彦、満州と岸信介 太田尚樹)

自己の利害を徹底的に追及し、目標に対して、不屈の闘志で立ち向かって、戦後の日本の方向を決めた人物が2人いた。

1.沖縄那覇市・瀬長亀次郎

瀬長亀次郎は、戦後アメリカ施政権が、沖縄の土地を、土地代金の一括払いで、軍用地として、半永久的に使うという政策に、いかなる圧力にも負けず反対し、土地を守り日本復帰を主張し続けた。そのことが、1972年佐藤栄作政権時代に平和下で沖縄返還が実現した大きな力になった。佐藤首相はノーベル平和賞をもらった。日本の沖縄復帰が決めた。瀬長亀次郎は沖縄貧農出だったが、旧制第7高等学校(現・鹿児島大学)在学中、治安維持法で放校処分された。1956年那覇市長選挙で市長に当選した。人民党は共産党に近いことで、妨害が連発した。議会で不信任決議が自治法布令の改訂で通過した。しかし、亀次郎の指名した兼次佐一が当選し、米軍への抵抗は続いた。抵抗運動の第1人者であり、米軍が恐れた不屈の男であった。

2.岸信介(戦前満州産業開発と阿片資金の政治資金化、戦後冷戦の開始で、日本の軍事化・保守自民党の一本化をして、首相になり60年安保条約を改定、後任の池田勇人、佐藤栄作の官僚首相の道をつけ、日本発展に貢献した)

長州の政治家血族で、婿養子で育ち、東京帝大卒業後は、内務省に行かず、農商務省に入り、商工省工務局で少壮官僚の力を発揮し、39歳で満州経営に乗り出す。満州産業開発5か年計画で鮎川の日産コンツェルン誘致、東洋1の豊満ダム、満業、満映など統制経済で成功した。満州国の予算の6分の1を占める阿片売買は、岸と甘粕が中心で、蒋介石、中共八路軍、イギリスにも資金は流れた。東条英機の政治資金も提供した。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨プリズン拘留後、イギリスの阿片関与、実弟の佐藤栄作の吉田内閣官房長官就任、1949年10月(昭和24年)中華人民共和国成立等の世界情勢変化で、反共がアメリカ政策の中心になったため、1948(昭和23年)年12月保守派復活のため、無罪釈放になった。自由党、民主党の保守合同後、59歳で自民党初代幹事長に、翌1957年(昭和32年)第56代首相に就任。60年安保改定にひとりで立ち向かった。金はろ過して使えが口癖だった。政治は力であり、カネだ。田中は湯気の出るようなカネに手を突っ込む。そういうのが総理になると、危険な状況を作りかねないと言った。岸を、人は、悪運は強いほどいいと言った。