東条英機

東条英機

(東条英機・阿片満州の闇 太田尚樹)

堺屋太一は言っている、「日本はなぜ勝ち目のない太平洋戦争に突入したのか」、その答えは、「年功序列で動く官僚人事(軍は軍を守る。国民を守るのではない)の軍人専制体制・無責任体制」にあった。

東条英機の特色

1.東条英機は目立たない軍人であったが、満州の憲兵隊司令官のときに、2・26事件が起きた。統制派軍人の東条は、皇道派将校の中隊長クラスが軍司令官の決裁も受けずに勝手に兵を動かし、天皇の老臣を殺害したことで、満州でもクーデターが起きることを恐れ、満州の皇道派将校などを逮捕した。憲兵政治は天皇の注目を得た。

2.東条は、満州にいたせいで、ソ連の赤化の恐ろしさを体得し、日米交渉で、国内革命も恐れ、日華事変で支那からの撤兵を拒否した。戦場での東条は急襲に追撃の馬鹿の一点張りだった。必勝の信念という精神力に頼る陸軍指揮官であった。軍隊では威勢のいい軍人が主流になる。

3.満州国政府の事実上のトップの総務庁次長岸信介と甘粕機関が阿片を牛耳っていた。阿片は関東軍と満州国が抑え、蒋介石やイギリスとの交渉をし、敵国に軍資金を提供して運営していた。日華事変が長引いたのは阿片も原因であった。昭和14年で国家予算の6分の1が阿片収入であった。東条が陸軍次官で東京に帰ると、甘粕は膨大な政治資金を彼に提供し続けた。

4.昭和13年(1938年)近衛内閣で次官として東京に呼び戻された。昭和15年(1940年)東条は陸相になった。三国同盟を推進した。昭和16年(1941年)東条は中国からの撤兵不同意と日米交渉の打ち切りを主張した。近衛は内閣を投げ出した。内大臣木戸幸一は東条首相を支持した。12月8日日米は開戦、マレー作戦開始した。昭和17年(1942年)6月ミッドウェー海戦敗北。昭和18年(1943年)4月山本五十六司令長官戦死。昭和19年(1944年)7月サイパン陥落後、岸信介国務相と東条首相の意見不一致で東条内閣は瓦解した。昭和20年(1945年)8月15日終戦の詔勅が発せられた。昭和23年(1948年)12月23日東条は絞首刑で死刑になった。