大日本帝国憲法
(逆説の日本史24 帝国憲法と日清開戦 井沢元彦)
1889年(明治22年)大日本帝国憲法と皇室典範が制定された。この他に、明治15年(1882年)軍人勅諭、明治23年(1890年)教育勅語がある。これに先立ち、明治元年(1868年)明治政府の基本方針として五か条のご誓文が示された。①万機公論に決すべし②経済を振興すべし③社会を充足すべし④旧習を捨て、人の道に基ずくべし⑤智識を世界に求めるべしの5ヵ条は、欧米列強に対抗できる西洋近代化・富国強兵を目指した。そして、江戸幕府が締結した不平等条約(治外法権、関税自主権)の改正は、憲法も議会もない状態では欧米列強は乗ってこなかった。
憲法を作るにあたって、手本となるものに、イギリス憲法(大隈重信、福沢諭吉等推挙)、プロシア憲法(岩倉具視、伊藤博文、井上毅等推挙)があった。イギリス憲法は王権は君臨すれども統治せず、議会で決める方式だが、岩倉、伊藤は君臨し統治すべし派であった。岩倉は公家育ち、伊藤博文は吉田松陰(神道+朱子学=王者は万世一系神徳の天皇のみ)の弟子であった。結局、プロシア憲法を手本とし、第1章は天皇で、天皇の絶対性(第三条は天皇は神聖にして侵すべからず)を強調し、憲法と対等に位置づけにした。天皇絶対化は一君万民を徹底し、旧儒教道徳を否定し、国民は男女平等、公の概念の付与、議会制民主主義体制を作り上げた。女子の高等教育、日清・日露戦争の勝利など、この憲法で明治時代は大成功を収めた。しかし、「絶対的権力は絶対に腐敗する」という真理を、日本人は体得していなかったので、1945年日本は敗戦破滅した。山形有朋は軍人勅諭で「軍人は世論に惑わされず、政治にかかわらず」と強調して、さらに軍人の選挙権も無くしたのに、軍人は絶対に政治に関与するなという勅語がありながら、軍部は絶対者である天皇の直属機関であると主張し、それゆえ議会に軍部の行動には口を出させないという形で、実質的に政治に関与し、軍部の利益誘導をして、大日本帝国を潰した。