論語は善、儒教は悪の理由
(なぜ論語は善なのに、儒教は悪なのか 石平)
「論語」という書物は、春秋時代に生きた、孔子という知恵者が語る、常識的な人生論・処世術である。前漢時代に生まれた、皇帝独裁国家イデオロギーとしての儒教とは、まったく異なっている。前漢の儒学者たちは孔子の名声を盗用して、「五経」という書物を作り上げた。そして論語を五経から排除した。皇帝権力の強化を目的とする儒教は、孔子とも、孔子の言行録である論語とも、何の関係もない。しかしながら、歴代王朝において、科挙を通じて、ずっと中国の思想と学問を支配した。時代が下がって南宋時代に、朱子が新儒教としての礼教を成立させた。朱子は前漢以来の儒教を否定して、論語を儒教の経典=四書五経に加えることにした。しかし、「在天理、滅人欲」を理念とする礼教は、常識的な論語の精神とは正反対のものである。日本の江戸時代の伊藤仁斎は、論語を上から読んでも下から読んでも、朱子学が唱えるような思想や学説は一行も書かれていないと指摘した。
常識の書である論語は、多くのことを教えてくれて、愛があり善であり有用である。しかし、皇帝の権力に奉仕するために生まれた儒教や「在天理、滅人欲」を理念として、人間性の抑圧を唱える朱子学と礼教は悪であり、有害である。
中国と朝鮮は、人間性抑圧と欺瞞を基本とする儒教と朱子学によって支配された。しかし、日本人は、江戸時代になって朱子学を官学としたが、論語は重んじつつ、礼教には最初から一顧だにしなかった。一方、論語は現在に至るまで親しまれてきた。人間性抑圧と欺瞞を基本とする儒教イデオロギーに支配された中国社会や韓国社会は、日本とまったく違った道徳倫理観を持っている。この重要な違いを、心に深く銘記しておくべきであろう。