軍事教育家吉田松陰の影響
吉田松陰は長州藩山鹿流兵学師範である。11歳の時、藩主に講義している。19歳で独立の師範になった。彼の発想の根底には、江戸時代以来の実用主義兵学があり、一方、欧米の日本侵略の時勢に対して、研究・対応策を考え・実行した。1854年安政元年、下田で米艦に乗り込み、欧米を実地に勉強しようとしたが、拒まれ、長州藩幽閉になる。幽閉中、松下村塾で、欧米世界の帝国主義・植民地政策の現状と軍艦・大砲・銃器の西洋化、西洋研究の必要性・軍備の充実を説いた。28歳からの1年あまりの教育で、塾生から、高杉晋作、久坂玄端、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎など明治維新の志士が出た。教育家として功績がある。一方、実行家としての吉田松陰は、現実分析対応力がなく急進的で、門人の多くが松蔭を敬遠し、失敗続きで、安政6年30歳で死刑になる。
しかし、彼の急進的考え方・思想は、明治政府に影響を与えた。①強力な中央集権国家で無ければ外国に対抗できないと言う事で、勤皇武力倒幕になった。
松蔭が、密航失敗で、伝馬町の獄中で書いた思想書「幽囚録」は、②明治政府の方向性に影響を与えた。この中で、欧米の大勢、日本の窮状から、これからは、海外に留学して、海外文明を取り入れる必要性を説いた。さらに、明治政府の外交策に影響を与えたことを言っている。「国は盛んでなければ衰える。だから、現在の領土を保持しているばかりでなく、不足と思われるものは増やさなければいけない。軍艦・大砲を備え、軍備をなし、<蝦夷の地を開墾し、諸侯を封じ、隙に乗じて、カムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して、内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸進し進取の勢い示すべし。>その後に、人民を愛し、兵士を育て、辺境守備をすれば、立派に国は建って行く。そうでないと、諸外国の争奪戦の真ん中に座り込んで、手足を動かさずにいれば、必ず国は滅びる。」ここに書かれている思想は、明治以降実行される。北海道開拓、琉球処分(琉球王国併合)、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリッピン占領と書物提言通りに進んだ。