華族制度始まりと終わり
(華族 人物往来社)
華族制度は明治2年に制定され、終戦後、昭和22年に廃止された。約1000人・家いた。明治2年に公家、大名が東京に呼び集められたとき、華族という新しい階級ができた。明治11年、勲功があった士族や平民も華族(華族の約半数)になった。勲功華族は公債が与えられた。旧公家や大名には、明治維新に際して、元々多額の公債が与えられていたので、金はなしであった。明治17年、5爵位(公侯伯子男)を定め、華族の約半数に与えられた。伊藤博文は、近代国家になるためには、欧米流の憲法・議会制度を整えなければ、条約改正も出来ないと知っていた。議会は上院(貴族院)と下院(衆議院)の2院制を採る。上院の方は、皇室の守りたる華族を中核とすると考えていた。明治17年、華族令が公布。18年内閣制度創設。彼は初代の総理大臣になる。22年大日本帝国憲法が発布。23年、第1回帝国議会開催。137名の華族が貴族院議員となった。初代の貴族院議長は伊藤であった。その後は、半分は徳川家の者が議長になった。伊藤博文公爵は維新の元勲で、華族制度創出者といわれるが、貧農のせがれから毛利家足軽の家に入り、正妻の梅子も元芸者、相手はほとんど芸者という、四民平等の維新革命の志士であった。戦前、貴族院は活躍せず、無用のものといわれた。華族たちの集会所として華族会館があった。現在は霞ヶ関ビルに任意団体・霞会館としている。華族の子弟教育のため、学習院が設立された。
華族制度は昭和22年5月3日の新憲法施行と同時になくなった。戦後の華族は、昭和天皇のお子さんの結婚相手は、現在の皇后を除いては、すべて旧華族であった。今上天皇のお子さんの結婚相手は、すべて旧華族ではない。時は流れているのだ。