士魂

士魂

一橋大剣道部の剣友会会報の名前は「士魂」である。

太平洋戦争の最後、千島列島の国境の島、占守(シュムシュ)島は、満州関東軍「戦車第十一連隊」の配置だった。「十一」という文字を縦につなげると「士」と読めることから、「士魂」部隊と呼ばれた。連隊長は池田末男大佐。8月15日、日本降伏の玉音放送の後、8月18日、ソ連軍が攻めてきた。ソ連は8月9日から不可侵条約を破って、満州に侵攻していた。士魂部隊に、第五方面軍・樋口季一郎少将より、出撃命令が下った。第2次攻撃の時、池田連隊長は、指揮官が死んだことを悟られぬよう、階級章のないシャツで、先頭に立ち、突撃した。連隊長以下96人の戦死者を出した。日本軍の死傷者が約400人だったのに対して、ソ連軍の死傷者は約3000人。全兵力の3分の1を失ったソ連軍は上陸地点付近に足止めされた。3日後に両軍の間で停戦交渉が成立した。士魂部隊は、終戦後でも闘い続け、ソ連の本土進攻を食い止め、日本国と国民を守った。池田連隊長は「白虎隊となり、玉砕をもって、民族の防波堤になる」と呼びかけ、全隊員の賛同を得て突撃し、ソ連軍を食い止めました。

満州では、たしかにソ連侵攻軍が150万人と多く、兵器も充実していたが、シベリア抑留日本兵が70万人であったことから、関東軍の負け戦の撤退における殿軍(しんがりぐん)の体制に、工夫が必要であったと感じる。戦死の可能性の高い殿払いは、苦しい。越前の朝倉義景攻めのとき、浅井長政の反乱に対する織田信長撤退戦の殿軍は、木下秀吉が受けている。豊臣秀吉の朝鮮戦争の撤退戦の殿軍は、島津義弘が受けている。徳川家康も功績を評価した。島津義弘は関が原の戦いでの撤退戦で、寡兵で正面突破作戦を成功させている。これらは、島津家の軍事能力・精神に、幕末まで影響を与えた。

江戸中期の佐賀藩の「葉隠」に「武士道とは、死ぬことと見つけたり」とあるが、新渡戸稲造は「死ななければならない時、死ねる勇気を持つことが、武士である」と説明している。