江戸時代の経済
江戸時代は1600年、関が原の戦いのあと、1868年、明治政府が出来るまで、約260年、平和・安定社会が続いた。
徳川幕府は、世界一の鉄砲生産大国をやめ、鉄砲を禁止、軍縮して、刀の時代に戻った。軍事政権から文治政権に変わったのだ。人口は1300万人から3000万人に倍増した。
最初の50年は、巨大インフラ整備が行われた。新農地の開発、河川用水の開発、城下町の建設、街道道路の整備、海上交通の整備などである。投資資金は4代将軍家綱の時代1660年までの7公3民が、1700年の5代将軍綱吉の元禄時代には、3公7民に逆転した。史上最大の減税時代を迎えた。次の50年は、自給自足の農業社会から、交換経済社会に変わっていった。庶民の所得は増大し、元禄バブルを生みだした。綱吉の時代の荻原重秀は貨幣を改悪したが、江戸の貨幣量は増加して繁栄した。しかし、金儲けのできる時代は終わり、バブルがはじけた。6代、7代将軍の時代の新井白石は貨幣の品位にこだわり、通貨供給量が半減し、ひどいデフレ時代に突入した。三井家始祖高利(たかとし)は、財産を子供に分配せず、一本化して持分だけを決め、そこから上がる利益のみを分配する方法をとって生き残った。1720年から1750年の8代将軍吉宗は享保の改革を実施し、幕府の大赤字を解消した。「入るを計って、出ずるを制す」の政策だ。①倹約贅沢廃止令②農民税金強化③上米の制度(参勤交代の江戸滞在期間の半減のかわりに、諸藩は1%の米を献上する。改革が軌道にのると廃止した)④その他色々である。産業革命や植民地政策などの大拡張策がないと、これが成長の限界であった。また、江戸時代は災害の多い時代でもあった。地球規模で寒冷化時代に入り、凶作が続いた。富士山、浅間山の噴火、元禄、宝永、安政の大地震、江戸など都市の火災などである。徳川幕府は仁政を旨としたので、なんとか、民と折り合って平和と安定の社会だったのだ。しかし、西洋列強の植民地主義の時代になり、明治維新の富国強兵、戦争と競争の時代に移って行ったのだ。