高利貸の歴史

高利貸の歴史

(江戸の高利貸  北原進 より)

営業としての専業質屋は、貨幣経済と商品経済が全国的に浸透した室町時代以後である。土倉と呼ばれ、質草が不動産から動産に広がってきた。役銭を貢納するかわり、朝廷・幕府・寺社の営業保護を受けていた。商店としての質屋は、1640年江戸時代初期に始まった。土地売買が禁止され、衣料などの動産を担保とする小口金貸し金融が成立した。法令では、①債権・債務者の名前・住所を記す②質物の評価は3分の2(質流れで3分の1が質屋の収益)③盗品扱いは厳罰とあった。質屋は、株会所に登録され、定書と看板出した。利子率は、古代の公出挙が年5割、私出挙が10割。室町・戦国で、銭100文で月5文、年6割、月8文、年10割。明治維新になるまで、期限は武具1年、衣料など8ヶ月、銭100文につき月4文、年利5割、金2両までは年利3割であった。この公定利子のほかに儲けを生む仕組みを持った。①自分以外の名義で高利の金を貸す斡旋をする②このとき、先引き1割の礼金を取る③期限を自分以外の分は、短くする。借換えの場合、新証文は、その月から利子を取り、その月は2回利子を取る(月踊り)。

武士と札差  江戸時代の旗本・御家人は、米で給料をもらった。米による、ほぼ定額収入に対して、江戸の生活費高騰はアンバランスになり、高利貸しに頼るようになった。江戸の米は、浅草の幕府蔵米であったが、武士はそれを現金にかえるため、札差(その武士の米に札を差した)を代行業者にした。そして、札差は武士の金貸になった。田沼時代、札差は最も羽振りが良くなった。蔵前の旦那たちは、歌舞伎のパトロンなど通人として、大金を使かった。明治時代になり、武士がいなくなり、米の給料支給が無くなると、札差もいなくなった。

現代の高利貸しはサラ金であろう。給与明細書と保険証か自動車免許証を提示すれば、無担保・日歩(年利5割弱)で給料の2~3ヶ月分、50万円まで貸す。武士と札差の関係に似ている。高利金融は現代まで続いている。

サラ金の現在の利息は、利息制限法で年利15%に規制された。

住宅ローンは、年利2%、35年返済、3,000万だと、返済総額は4,200万円になる。2017年は、低金利で、1%レベルに下がっている。