右翼 非暴力ギャンブラーの笹川良一、貧苦暴力団の児玉誉士夫

右翼 非暴力ギャンブラーの笹川良一、貧苦暴力団の児玉誉士夫

戦前から戦後にかけて、日本の政界に影響力と関係を持った右翼に、笹川良一と児玉誉士夫がいる。笹川は戦後、競艇資金で影響力を振るった。児玉は中国の児玉機関の金を、戦後、日本自由党(鳩山一郎総裁)設立の資金援助とした。

児玉は、国粋大衆党でオーナー総裁の笹川と出会うまで、笹川と正反対の人生を歩んできた。笹川は、富裕な家庭に育ち、両親や周囲から十分な愛情と躾によって育まれた。一方、児玉は貧苦にあえぎ、荒涼とした青少年時代を歩み、右翼団体を転々とした。

笹川が常人と違うのは、ギャンブラーであったことだ。26歳で家督を継いだとき、遺産が10万円(今の3億円)あった。その遺産で、大阪堂島の米相場で2度にわたって、勝負をかけ、100万円(30億円)儲けた。戦法は逆張りであった。専門家が売りといえば、買いに出て、買いといえば、売りに出た。昭和2年金融恐慌に、銀行救済と市川歌右衛門プロダクションの社長、月刊誌・国防社の社長と事業に手を出している。国防社を母体として国粋大衆党を立ち上げた。笹川良一が他の右翼と違うのは、誰の援助も必要としない経済力のあるオーナー総裁であったことだ。飛行機が好きで、その縁で、山本五十六とは、大変親しかった。1941年大東亜戦争が始まるとき、海軍の物資調達ルートの話が来たとき、児玉誉士夫に振り、児玉機関を設立した。1945年敗戦時、児玉機関は当時の金で35億円、中国に没収されたが、直前、飛行機2機に金、プラチナ、ダイヤ、現金を満載して、日本に持ち帰った。

昭和20年(1945年)戦争犯罪人裁判・東京裁判で、笹川は、国粋主義活動により、A級戦犯(平和に対する罪)として、巣鴨刑務所に入獄した。東条英機と会い、自衛戦争の主張と天皇に迷惑を掛けないよう説得した。東条は大いに感謝した。

巣鴨拘置所を出て、3年過ぎた昭和26年(1951年)笹川はモーターボートの公営ギャンブルを企画し、運動の結果、モーターボート競走法案が衆議院を通過した。笹川が公職追放解除後、昭和30年56歳で第2代会長になった。今日、日本財団になっている。笹川は一時数百億円の金を持っていたが、96歳で死んだときは全く残っていなかった。晩年は、女と儲け話に興じ、もうろくした。金儲けがうまい右翼という評価だった。

 

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コメント: 3
  • #1

    一帆 (日曜日, 13 9月 2020 18:52)

    コメント0っと?
    凄い人だと思いますよ。
    ただ、元々大金を持ってだですよね。
    そこが残念。

  • #2

    鬼畜ハンター (日曜日, 20 12月 2020 04:12)

    金の使い方が素晴らしい右翼だったの間違えだと思いますよ。

  • #3

    はてな (金曜日, 17 12月 2021 21:32)

    CIAの工作員として働いた売国奴でしょ、巣鴨で死刑になっていればまた、日本も変わっていたかもしれません。児玉誉士夫もな。