要領と取引 田中角栄
田中角栄は新潟の田舎柏崎の高等小学校を卒業しただけの(小学校の成績は首席だった)破産農民の息子であるが、東京に出稼ぎに出て成功した。なぜ成功できたのか。
建築設計の勉強をしたことと、北満州の2等兵時代に兵隊ヤクザであり、軍隊で「要領と取引」を会得したことであった、かも知れない。軍隊は2年で病気退役となった。
建築設計については、戦前、理化学研究所・理研グループ創立者の大河内正敏と出会い、知己を得て、建築設計事務所で独立し、戦前の15大財閥の理研コンツェルンから、新潟県の新工場群の設計の仕事を得て、きっかけをつかんだ。戦時中、田中の事業は飛躍的に伸張した。1600円の設計料の口利き料として200円支払ったりした。1944年、田中土建(全国50社内)が理研から請け負った、工場の朝鮮への移転工事費は2000万円(現在の100億円)を越すものだった。1945年の敗戦時、釜山から女子供しか乗れない海防船で引き上げてきた。背後に「要領と取引」があったと思われる。また、朝鮮での金銭を内地に持ってきた可能性もある。そして、幸運なことに東京の事務所、住宅などは無傷で残っていた。1946年「15万円出して出馬したら当選」と言われて、第1回総選挙に出馬したが次点であった。1947年第2回総選挙で当選した。田中はGHQ占領中に長岡鉄道の社長になり、開発銀行融資をかなり引き出した。吉田首相は派閥政治家としては不器用であった。田中は閥務や選挙の泥沼に手を汚し、補完したとも言える。日本列島改造論など金権選挙の仕切り屋であったと言えよう。
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