八紘一宇の大東亜共栄圏と「浮かれ傲慢」

八紘一宇の大東亜共栄圏と「浮かれ傲慢」

昨日は(2016年)8月15日でした。終戦記念日。

戦前の帝国主義日本の、つわもの共の夢の後の日でした。

 1940年7月第2次近衛内閣が発足しました。前月6月にはフランスがドイツに降伏、日本は、フランス植民地のベトナム、オランダ植民地のインドネシアが、「空き家」になったのを見て、日本の植民地にしようと考えました。イギリスの植民地のシンガポール、マレーシアなども、まもなく「空き家」になるはずでした。千載一遇のチャンス、「バスに乗り遅れるな!」と考えました。近衛内閣は「八紘一宇の精神に基づき、大東亜共栄圏を建設する」という方針を出しました。東南アジア、太平洋各地の統治のために、「武力を行使する」とハッキリ書きました。ただし、武力を行使する相手を出来るだけイギリスに絞るという方針でした。アメリカは日本より、軍艦で4倍、飛行機で6倍持ち、石油の9割をアメリカから輸入し、鉄鋼など10倍の国力でしたので、アメリカと戦争する気持ちは持っていませんでした。当時は帝国主義の時代で普通の考えでした。 

 外務大臣の松岡洋右は山口の廻船問屋の子で、13歳のときアメリカに渡り、外交官になった男でした。戦後の岸総理大臣、佐藤総理大臣の叔父でした。1933年満州国建国で国際連盟脱退退場をして、当時のマスコミの人気者になりました。1940年、彼は天皇、西園寺公望、近衛首相等の反対を押し切り、日独伊三国同盟、日ソ中立条約を結びます。彼等が主張した大東亜共栄圏構想とは、「空き家」になるフランス、オランダ、イギリスの植民地を、日本が支配するという構想でした。松岡外相は日独伊3国同盟と独ソ不可侵条約により、ユーラシアに四国同盟(日、独、伊、ソ連)が出来ると思っていました。しかし、1941年6月独ソ戦争がはじまり、四国同盟構想は破綻しました。松岡外相は、「同盟国ドイツとともにソ連に開戦」、日米和平協定がうまく成立できなかったので「対米戦争を辞せず」と主張しました。困った近衛内閣は松岡外相を追放するために、総辞職しました。松岡外相の敗因は情報収集能力の欠損と独断強行でした。情報能力の欠陥は、日本がベトナムに進駐したら、アメリカが経済断交、石油の全面禁輸を招くことを理解できなかったことにも現れています。日米交渉が成立せず、太平洋戦争が始まり、敗戦しました。 

 大東亜戦争の節目は1937年(昭和12年)第1次近衛内閣の時に、盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まり、1940年(昭和15年)第2次近衛内閣の時に、松岡洋右外相により、日独伊3国同盟と独ソ不可侵条約締結及び1941年(昭和16年)6月独ソ戦争、7月米国の対日経済断交が12月8日の対米開戦の節目となりました。3年半後、1945年(昭和20年)8月敗戦。

 なぜ勝てないと分かっていた大東亜戦争がやめられなかったか。これは、日本人の悪いクセ、うまくいくと「思い上がってしまい、浮かれて<傲慢>になる」ためだ。当時のマスコミも、新聞部数を伸ばす為に、景気のいい、主戦論を打っていた。民衆、軍人も一等国民だと、わけもなく偉ぶって、そっくりかえっていた。これが敗因だ。これは、1990年の日本のバブル崩壊のときもそうであった。日本人はうまくいって、偉ぶり傲慢になると、かならず失敗する。本当に反省しなければならない。

 ー田原総一朗の「誰もが書かなかった日本の戦争」からー

大東亜戦争は帝国主義日本と帝国主義アメリカの戦いであった。日本がイギリスを負かし、ドイツに敗れたフランスとオランダの植民地を一時的に占領したことにより、戦後、アジアの国々は植民地から独立国になれたという、結果的によい結果をもたらした。世界史を動かしたことは確かだ。